小川会長 ブラジル訪問 テラプレタ見聞記

ブラジル訪問 テラプレタ見聞記 小川眞  2010,8.11-8.25

8月9日 (火)

京都府亀岡市で暑い中、イギリス政府から派遣されたエディンバラ大学などのバイオチャー視察団につきあう。彼らは8月3日に来日し、関東や中部地方の施設を見学したのち、滋賀県で愛東町の菜の花館を見て京都へ移動。この日は亀岡市役所を訪問した後、無煙炭化器によるタケの炭焼き実演や炭を施用した畑を見学し、私は炭堆肥を施用したムギの後作、アズキの根のサンプリングを採る。夕刻には京都のホテルへ帰る。

 

8月10日 (水)

京都駅近くのキャンパスプラザで午前中は日英共同研究の相談があり、午後は立命館大学などによる日英バイオチャーシンポジウムに参加。挨拶と講演をこなし、あとは懇親会。これで国内でも多少は波紋が広がるかもしれないが、イギリスには、まだバイオチャーの実績がないのが分かる。少々、スコットランドなまりの英語に疲れる。英国領事館の須本さんとは2004年にパリで開かれた国連環境計画が支援したワークショップ、「急激な気候変動とその対応策」で出あって以来の付き合いで、環境総合テクノスの沖森さんと親しく、二人の努力が実を結んだ結果の訪問だった。大勢の方々のお世話になって、炭の国際研究交流が本格的に動き始めた。来年、2011年9月には京都でIBIのアジア-パシフィック バイオチャー会議を開くことになった。

 

8月11-12日 (木)

連日の猛暑による疲れが取れないまま、JR小倉10:35発の電車で京都へ。同行する関西産業の梅沢さんと東京駅で落ち合い、成田エキスプレスで第二ターミナルへ。途中電車の中でアメリカ入国のためのビザ申請を梅沢さんにやってもらう。70歳をこえると、なんでも面倒になるので、誰か親切な人と一緒に出かけるのが無難である。相手をしてくださる方には申し訳ないが。

18:00発のアメリカン航空AA168に乗って12時間かけてニューヨークへ飛ぶ。満席で眠れず、エコノミー症候群で足が腫れあがる。かつ、まずい食事、アルコール類は有料。スチュワーデスはみんな巨大な(ヒュージ)おばさん達で、愛想が悪いどころか、食事が終わるや否や「オーバー」といって、ゴミ袋に食器をボンボンと投げ込んでいく。ケネディー空港でいったんアメリカへの入国審査を受けて、指紋や顔写真をとられ、荷物まで受け取って出国手続きをする。中南米へ行く人には迷惑で、屈辱的ややり方である。ニューヨークはかなり寒く、4時間待って9:40発でサンパウロへ。また12時間かかるので、合計24時間飛行機の中である。12日の8:40にサンパウロ空港について、山根先生に出迎えられ、ハワード・ジョンソン ホテルに入ってしばらく休憩。

このたびのブラジル訪問は山根先生のお招きである。山根徹男さんは日系二世で、サンパウロ生まれ、お父さんが大正時代の初めごろ外務省による移民の追跡調査のためにブラジルに渡り、そのままミイラとりがミイラになってしまったという話だった。どこへ行っても顔の広い方で、誰に対しても穏やか。ポルトガル語はもちろん、英語、日本語を自由に操り、79歳とは思えないほどお元気である。アルコールは全く口にせず、その食欲は若者をしのぐほど旺盛。15日間ずっと炎天の中を私たちにつきあってくださった。

現在はアマゾン州立大学生物工学部教授で、国立科学技術研究所、エネルギー・環境・生物多様性研究センターの所属である。このほか、アマゾン生物工学センター、生化学・分子生物学部門のコーディネーターでもある。サンパウロとニューヨークの大学と大学院で生化学を学び、PhDをとってアメリカの電話会社ベルの研究所、通称ベル研で研究員として勤務。ベル研が閉鎖になったため、サンパウロ州立大学の教授になり、定年後アマゾン州立大学の建設に携わり、現在は客員教授のような立場にある。家族はニューヨーク、家はサンパウロ、勤め先はマナウスという生活で、ほとんど毎年のように来日されている。

2007年頃のある日、ヤマネというブラジル人から日本へ行く機会があるので、炭の農業利用について教えてほしいというメールが届いた。25年ほど前、筑波大学へ交換教授で来ていたブラジルの先生にダイズ栽培に炭を使う方法を教えてあげたので、その関係かと思ったら違っていた。山根さんはアマゾン州の産業振興や生活改善、環境の保全などに幅広く強い関心を抱いておられる愛国者である。

2000年に入って、アマゾン流域にある黒い土(テラプレタ)が、欧米の研究者たちの研究によって有名になり、ブラジルが無視されたことに多少不満を感じておられるようだった。この黒い土は、その昔インディオが炭を使って農業をいとなんでいた跡とされ、作物や樹木の成長がよいことで知られている。そのため、炭の農業利用が進んでいる日本からその知識や方法を移入して、焼畑農業を抑えて森林を保護し、アマゾン流域の農業を持続性のあるものに変えたいという希望を抱いておられた。山根さんによると、そんな話をサンパウロ大学でしたところ、筑波へ行ったことのある若い研究者が、炭を扱っていた私の名前を聞いて山根さんに伝えたということだった。

ブラジル移民百周年記念事業の関係で、2008年に来られた時、京都でお会いすることになった。ブラジルでの炭の材料がヤシガラや果実の殻だと聞いていたので、モミガラくん炭の連続炭化炉で知られている関西産業株式会社を訪れることにした。滋賀県彦根市南川瀬の駅で落ち合い、すぐ傍の関西産業を訪ねた。そこで社長の児島さんに会い、梅沢さんから炭化の話を聞いたり、愛東町にある菜の花館を見学したり、使っている農家を訪ねたりしていただいた。その時、梅沢さんの叔父さんがトメアスにいるという話が出て、これも何かの縁、ぜひアマゾンへということになった。人のつながりとは、不思議なものである。

さて、着いたこの日にサンパウロ州立大学でセミナーを開くことになっていたが、農学関係者が学会で留守のため、キャンセル。その代り、大学のレストランで5人の研究者たちと会うことになった。英語が通じにくいので、ほとんど一方通行になってしまうが、多少専門知識のある人には炭の役割を簡単に説明しておいた。山根さんによると、ここにはアマゾンに関心のある人がほとんどいないそうである。

そこで、テラプレタを研究しているという教授を尋ねたが、これもアマゾンへ出かけていて不在。代わりに教育担当の女性の教授に会って、テラプレタのことを聞いたが、詳しくは知らないということだった。彼らはテラプレタに含まれる陶片から年代を推定し、分布やその特徴を調べ、埋葬方法や祭祀の跡などについて研究をしているという。大学にある先史時代の博物館を見せてもらったが、土器や石器が多く、インディオの文明は原始的な段階で止まっていたように思えた。なお、火皿などはあったが、炭に関するものは見られなかった。

昼食をとったレストランの近くにタケが数種類植えられていた。幹が黄色いタケ、キンメイモウソウチク。幹が太く、高さ40メートルほどの大きなタケ。幹が細くややササ状のタケなど、アジアから移植したものである。太いタケの下にはタケノコが出ていて、年中とれるという。皮がA3ほどの大きさで、バサバサと音を立てて落ちてくる。風が吹くと密生しているために、幹がこすれて悲鳴を上げていた。雨季には湿度が高いらしく、幹に地衣類が張り付き、藍藻や酵母も見られた。広い構内は植物園のようで、いろんな植物が繁茂している。

山根さんは昨夜ニューヨークから帰ったばかりだが、すこぶる元気。6時から寿司屋に出かけて、寿司を肴にサトウキビから取った、45度の蒸留酒、ピンガにライムと砂糖を加えたカイピリーニャというカクテルを飲む。口当たりが良いので、帰るまでこればかり飲んでいた。後で聞いたら労働者の飲み物だそうだが、その方が私にはふさわしい。

 

8月13日(金)

晴れて温かい。7:45にホテルを出て、タクシーでサンパウロ北郊にある工業都市のカンピナスに向かう。道路沿いは放牧地や農耕地以外、オーストラリア原産のユーカリの一種、ブルーガムの人工林で埋め尽くされている。すでに伐採が始まっており、これからパルプ生産が本格的になりそうである。水量が多いので、将来製紙産業が発達することだろう。民衆の生活状態は良くないのか、都市周辺にはバラックと落書きが多く、最近貧富の差が大きくなっているそうである。

山根さんがCMで見たという炭化装置の開発会社を訪問する。午前中に訪れたのはテルモジュールという会社で、サンパウロ州立大学とガス化装置の開発研究を行っており、装置を試運転中だった。新しい装置はニッケル触媒で水素を作り、副産物として炭ができるという仕組みである。1200℃で燃焼してガス化に成功しており、カロリーは高いという。タールと木酢液は燃やしているので、水分も出ない。できた炭は十分使えるようだったが、まだ作物には試していない。二人の技術者は我々と同年配の老人で、研究を楽しんでいるという風情。事業にはほとんど興味を示さなかったので、説明を聞くだけに終わった。

午後2時からバイオウエアという会社を訪問したが、ここは10年前にスタートしたNPOのような組織である。機械・装置の製造というより、むしろ既存のものを使って新製品を作り、販売しようとしている。若い女性研究員が熱心に説明してくれたが、ここにもバイオチャーを作った実績はない。バイオマス燃料や肥料、ブリケット、バイオオイルの開発・普及などを行っている。たとえば、牛の骨を砕いて粉末を作り、ミネラルの多い肥料を作るなど。炭化装置やバイオチャーにも強い関心を持っていたので、私が炭の効用について説明し、梅沢さんが自社の機械を紹介した。機械装置は見慣れたものがほとんどで、あまり多くは期待できない。

ブラジルでの木炭製造の歴史は、製鉄用として古くから知られているが、バイオチャーの生産はこれからで、実際に使っている例は見られない。もちろん、園芸品店を見てもバイオチャーや炭堆肥を売っているところはなかった。どうやらテラプレタの名が一人歩きしているようだった。山根さんは関西業と提携して炭化装置を作ってくれる会社を探しておられたようだが、それは不発に終わった。夜はバーベキューレストランへ行くが、またもや食べ過ぎ。ブラジル料理はどれもすごいボリュウムである。

 

8月14日(土)

この日は休日。9時にホテルを出て公設市場を見に行く。サンパウロでは市内の数か所ある卸売市場にそって、土、日に開かれる一般向けの常設市場がある。長さ数百メートル、幅40メートルほどの大きな上屋の下に、果物、野菜、花、肉製品、乳製品のチーズ、バター、魚などの個人商店が区画ごとにまとまって並んでいる。野菜や果物に珍しいものが多く、花の種類も豊富で、珍しい着生ランが売られていた。野菜や花を売っている人の多くが日系人で、タケノコやダイコン、ゴボウなども並んでいる。どこの国へ行っても市場を見に行くことにしているが、このごろは同じ食品が出回るようになり、特に野菜や果物のグローバル化は激しい。

サンパウロは標高1000メートルの高地にあって、年中快適な気候だという。この日は16℃まで下がり、震えあがるほどの寒さで、11時ごろから小雨になった。もっとも真冬だから当然のことかもしれない。今年は異常気象で温度差が大きく、ブラジル南部やアルゼンチンでは先週積雪があったという。

ダウンタウンの赤い鳥居がある東洋人街へ出かけて、商店をのぞいてみる。なぜか橋の名前が大阪橋だった。日本からの輸入食品が2-3割高で売られているが、長い列ができるほど繁盛していた。安物のお土産や雑貨を売る店が並び、中国や韓国風のものとまじり合っている。

雨の中をサントスへ向かう。海抜1000メートルから海まで、高速道路は下りっぱなしである。途中比較的森林が多く、低地に近づくと湖や入り江があって、景色がよくなった。1908年に日本人移民の第一陣が笠戸丸でサントス港に上陸し、ここから列車に乗ってサンパウロへ入ったそうである。今は港湾とリゾート地になっているが、リオデジャネイロ、サンサルバドルと並ぶ三大港の一つである。

昼食を二時過ぎからレストランで食べる。米飯に豚の脂身や皮を煮込んだものをかける料理やエビのフライで満腹。カイピリーニャを一杯だけ飲んで温まる。海岸を散歩して大西洋の水に触れてみた。砂がひどく細かい。寒いのにサーフィンをしている人が多い。低気圧が接近しているためか、波が高く、海が荒れていた。港に回って日本人の上陸記念碑を探したが、見当たらず帰路に着く。今日は食べすぎのため、夕食を抜いてシャワーを浴び、本や論文を読んで早く寝る。明日から10日間、アマゾンの熱帯雨林地帯である。

 

8月15日(日)

7時にホテルを出て、サンパウロ9:30発の便でマナウスへ飛ぶ。時差は一時間。4時間近くかけて13時に着く。飛行機がマナウスに近付くにつれて、立ち上る白い煙の柱が増え始めた。乾季に火をつけている焼き畑の煙である。空港を出ると、熱帯特有のムッとするような空気が押し寄せてきた。サンパウロに比べて、かなり蒸し暑い。この日は曇りがちの天気だったが、それにしても遠くが見えないほどにかすんでいる。雨が降ると、空が晴れてきれいになるそうだから、相当なスモッグである。工業地帯から出るスモッグに焼畑の煙が加わるので、最近さらにひどくなったという。昼間は黄色だった太陽が、夕方には朱色の円盤のように見えた。

ちょうど乾季に入っているので、燃えている場所が増えているらしい。最近、都市の近郊では焼畑が禁止されたが、いまだに小規模のものは続いており、奥地では監視の目が届かないので、盛んだという。このスモッグの規模はインドネシアの比ではない。

保護地域以外の二次林地帯に入植すると、一家族当たり25ヘクタールの土地が与えられる。その二次林を伐採して、倒した木が乾季になって乾いたところで火を放つ。この火が延焼して大規模な森林火災になることも珍しくない。焼いた跡をみると、灰とわずかな消し炭が残っているだけで、まったくなにもない。乾いた薪を積んで焼くようなものだから、表土まで焼けている。表土が焼き土になると、雑草や病原菌、害虫などもいなくなるので、作物が育ちやすい。しかし、もともと落ち葉の層が極めて薄いので、土がむき出しになり、雨が降ると表土が流れてしまう。

雨季が始まると、ここへ陸稲やマメなどを植えるが、収量は少なく、1-2年で作物が取れなくなるので、移動して、また新しい場所で焼き畑をする。そのため、年を重ねるにつれて、焼き畑跡地が広がり、荒れ地が増えていく。一人の農民からすると、耕作地を放棄しても、すぐ木や草が生えてきて元のようになるから、大した問題ではないが、人口が増えるとその影響は大きい。

農民は自分が管理できる範囲が限られているため、焼き畑によって消失させる面積はさほど大きくない。一方、より大きい面積を必要とするウシの放牧が赤道直下でも、ブラジル人たちの手で行われており、これが占める面積は広大である。さらに牧草の成長が良くないので、ウシが痩せこけており、数年で放棄して移動しなければならない。その結果、森林が大規模に破壊され続けているという。また、バイオマスエネルギーの普及に伴って、大企業によるサトウキビやトウモロコシ栽培、パルプ資源用の産業植林なども盛んになり、そのための森林伐採と火入れも大規模化している。地元で聞いたところによると、森林の消失は一向に止まらず、むしろバイオエネルギーの開発で拡大しているという。基盤となる土壌がきわめて劣悪で、土壌有機物がほとんどないだけでなく、理化学性も悪いので、相当土壌改良しないと定住農業は難しい。テラプレタは定住農業のあり方を示した一つの例ともいえる。

山根さんからマナウスには創価学会の出先があって田中明さんが常駐しているという話を聞いていた。ノボテルへ入って、しばらくすると田中さんと高校の先生のヌエルさんが来た。濃いブラジルコーヒーを飲みながら挨拶を交わし、創価学会のアマゾン保全センターへ行く。この施設は創価学会が布教とアマゾンの森林保全を目的として設立したもので、田中さんが専門家として家族と一緒に17年間滞在し、構内で植林活動を行っている。

広い構内は、ほとんど二次林でヤシや灌木が密生し、いわゆるジャングルのように見える。大木になるクリの仲間が保護されているが、このほかにキノコが共生する樹種は見当たらない。ひょっとすると、菌根菌がいるかもしれない。施設へ向かう途中にテラプレタがあるというので、100メートルほど森の中へ入ることにした。田中さん達が植えたクリの木が列になって、かなり大きくなっていた。

密生している木の間を分けて行くと、以前にテラプレタを調べたという場所に出た。土壌断面調査をした穴があって灰色の土が見える。穴の中には灰色の産毛をはやしたカラスの子が二羽すくんでいた。ここの土壌は炭素含量の多い黒土で、砂壌土。黒い層は深さ70センチほどである。表層には熱帯ポドソルに似た溶脱層ができていて、表層土は砂質で灰白色だった。熱帯では落葉分解が速く進むため、腐植がたまらず、酸性が強くなる。さらに雨が多いので、溶脱が進むらしい。詳しく観察しようと思ったが、カが襲ってきたので、早々に逃げ出した。ここもマラリアやデング熱で有名なところ。予防接種していった黄熱病はないというが、心配。

アマゾン保全センターの中で、おいしいクプワスーのジュースを飲みながら話を聞く。有機農業をやっている山下さん夫妻は炭の効果にも興味があるらしく、堆肥や炭について質問が次々と飛び出す。田中さんもアマゾンでの植林や農業の振興に情熱を傾けて活動しており、創価大学准教授の佐藤伸二郎さんとは一緒に働いた古くからの友人だという。佐藤伸二郎さんはコーネル大学教授でIBI会長のレーマンと一緒にテラプレタについて研究したことがあるともいう。この人には名古屋で開かれたJBAの大会で会っているので、ここでも人脈がつながった。創価大学の施設を使わせてもらって、有機農業や植林、炭の作り方や使い方などの研究や研修ができれば有意義な事業になるかもしれない。

この施設の後ろにもテラプレタの大きなマウンドがあって、陶片が出るというので見に行った。やはり灰色の土でレンガ色の陶片が散らばっていた。マウンドの表面に細い筋が何本も走っている。何だろうと思ったら、ハキリアリがせっせと木の葉を咥えて運んでいた。ここは墓地の跡らしく、陶製の棺が出たという。陶片が出るのは祭祀の跡かもしれない。甕棺葬の風習があって死体をさかさまに入れるのは、胎児の状態にして天に戻すという信仰あったためだろう。

展望台から、黒い水が流れるリオネグロ(ネグロ河)と白いアマゾン河が並行して流れるのが見えた。並行して流れる河の幅は広く、海のようである。リオネグロから上水をとる計画があって、取水用の塔が建設中だった。ブラジルの水資源は無尽蔵で、電力の90パーセントが水力だが、流域の開発が進むにつれて水質は悪くなっているという。もうひとつの大きな資源はバイオマスだが、これもかなり蝕まれており、広域にわたる保護が必要になっている。これも山根さんの心配の種である。

川辺におりてみると、水の中に灌木がマングローブのように生えていた。その木の実からクプワスージュースを作る。その昔、川沿いにゴム成金が建てたという別荘の廃墟があり、樹高60メートルにもなるマメ科の大木や150年生のマンゴーの木、固い殻から食器を作るヒョウタンノキなどが植えられていた。

ホテルでマナウスに暮らす日本人たちと夕食をとる。ブラジル政府、科学技術省所属の国立アマゾン研究所(INPA)には多くの日系人や日本人が働いており、それぞれの分野で活動している。その中でノエミア・イシカワさんは日系三世のキノコ栽培の研究者で、おじいさんがブラジルの南部でシイタケ栽培を始めた人だったとか。アマゾンに適した栽培キノコを作るのに熱中している。北大で学位をとり、今年鳥取の菌じん研へ研修に行ったとのことで共通の知り合いが多い。彼女は、筑波にいたころ私の研究室にいたことがある菌根の研究者、粕谷さんの弟子でもある。イシカワさんも菌根に興味があって、探しているが少ないという。たまたま研究室の近くでイグチが出ていたが、その近くにあった木が切られてしまったと悔しがっていた。もうひとつ興味深いのは、イシカワさんによると、サビ菌の権威、カナダの平塚さんが来られた時、自然保護林の中を12キロ歩いたが、サビ菌が見つからなかったという話。ほかの人もそう言っているというが本当かどうか。事実ならたいへん面白い。

 

8月16日 

8時にホテルを出て国立アマゾン研究所(INPA)へ行く。農業土壌の専門家でバイオチャーを扱っているニュートンさんの研究室を尋ねて、そのチームに会って話をする。炭を加えたブリケット型の炭肥料を作ろうとしているが、炭を肥料と取り違えているらしい。今日は一日彼のお世話になる。山根さんの知り合いで髭もじゃのアメリカ人、クレメンツさんに会う。面白い男でテラプレタはどこにでもあるもので、大騒ぎするほどのことではないと笑う。テラプレタはゴミ捨て場の跡で、有機農業を続けてきたアジアの農耕地はみんなテラプレタだという点で意見が一致した。

火をおこす方法は知られているが、火を残す方法は証拠が少ない。火を保つことは火をおこすのと同じほどに大切だったので、早くから火を運ぶのに炭を用いていた可能性は高い。今でもブッシュマンなどは、消し炭の火を運び、つい先ごろまで、私たちもこたつや火鉢の炭火に灰をかけて火を残していたのである。なぜ、アマゾンに灰や炭を使った農業技術があったのか、それは我々が同じモンゴロイドに属しており、ベーリング海峡を渡ってくるとき、炭火を運んできたのだと、煙に巻いておいた。

おそらく、テラプレタは初め貝塚のようなゴミ捨て場から始まったのだろう。ゴミや糞尿と炭や灰があれば、植物はよく育つ。特に、人間が集めてきて食べられる植物は窒素やリン、カリなどの肥料成分を好む性質が強い。その種や根がゴミ捨て場に捨てられるとよく育ったはずである。次に、ゴミ捨て場で食べ物が採れるなら楽だというので、土を耕して有機物や炭と混ぜ、意図的に作物を栽培し始めたのかもしれない。このほうが定住生活をするには有利である。ブラジル人たちは、熱帯では炭を作る必要もなく、インディオが炭を使って栽培するほど、賢かったとは思っていいないという。ただし、文明の退化もありうるので、何とも言えない。

INPAでは有用作物を研究しているユヤマさんや在来の食用植物に詳しいノダさんなどに会って、いろんな事を教えてもらった。展示館や木質繊維の研究室を見て、農業部門の研究棟に戻り、ノエミア・イシカワさんに会って、アマゾン奥地の原住民が食べているキノコの種類や、調査結果について話を聞いた。採集品のリストを見せてもらうと、腐生菌は多いが、菌根性のものはほとんど見られない。外生菌根性の樹木が少なく、サビ菌がいないということなどから、アマゾン流域に植物が入った時期を考えてみるのも面白いかもしれない。

お昼休み、シエスタをたっぷり取って、午後4時から研究本棟の講義室で「炭がなぜ植物の成長に効くのか」という話をする。ノエミアさんが通訳してくれたが、途中で質問する人が多く、二時間半もかかってしまった。梅沢さんが話をする時間がなくなってしまい、炭の製造については個別に聞いてもらうことになった。20数名の聞き手には研究者だけでなく、有機農業を志している人や専門外の人も交じっていたが、大変熱心に聞いてくれたので、はるばるやって来たかいがあったと思った。

みんなの話を聞いていると、炭を使った農業を進められるのはアマゾン流域に限るというのが実感である。というのは、炭や堆肥の原料が豊富で、土は痩せていて酸性が強く、野菜や果物つくりの主力が日系人であることなど、山根さんの御説のとおり条件が整っているからである。今後どうやって有機農業を推進するべきか、プランを立てて山根さんに渡した。マナウスで炭堆肥製造業者と有機農業者、意識のある消費者を上手につなぐと、うまく行くかもしれないと思う。夜はイシカワさんや山下さん夫妻と一緒に魚料理の店へ行く。おいしいので、また食べ過ぎ。ピンガを二杯も飲んでしまった。ただし、アルコールが抜けるのは実に早い。

 

8月17日

ニュートンさんが迎えに来て8時にホテルを出る。INPAでもう一人加わってテラプレタを見に出かける。リオネグロの渡し場で一時間半待ってフェリーに乗り、40分かけて広い河を渡る。船の上はとにかく暑く、風もない。河を渡ってから荒れた二次林や放牧地、農耕地、果樹園などが延々と続く中を70キロも走り、川魚料理の水上レストランについた。ところが、ここはまだ中洲で、アマゾン川の本流にはまだ20キロほどの先だという。

この辺り一帯は沖積土壌で、砂や粘土層の上に黄色い粘質の埴壌土が乗った未熟土壌である。12時過ぎから2時まで、ビールを飲んでたらふく食べて、たっぷり休みをとるのがアマゾン流の昼休み、シエスタである。大きな川のような池があって、子供が水浴しているが、リオネグロの水はその名の通り、本当に黒い。

しばらく走ると、アマゾン川に行きついたが、この中州にはすでに天然林はない。インドネシアのマカランガに似た木が混じる二次林で、そのほとんどが焼畑の跡か、放棄地である。どこまで行っても、土はまっ黄色で、その下には灰色の細かな砂の層が見える。道路沿いの火が入った直後の畑には、灰と黒い炭のかけらや半焼け根や枝がたくさん残っている。火が入って一年以上たったところではワラビに似たシダが一面に生えており、植物が絶滅した跡にシダが繁茂したという地質学的調査結果を裏書するような光景だった。

この地域ではテラプレタを使って、今でも農業を営んでいるという。テラプレタの地域に近付くと農家が多くなり、集落が現われた。3歳の時に親に連れられてやって来たという、ブラジル人の80歳の老人がいて、レモンやライム、パパイヤで成功したという。現地人と結婚して家族で農業を営み、子供や孫は原住民に近い顔つきになっている。ニュートンさんたちと親しく、ここでINPAが行っているテラプレタの調査や実証試験を手伝っているそうである。主要な栽培植物はライムだが、ライムやココヤシ、カシュウナッツ、コーヒーなどの木の下にカボチャやインゲンマメなどを栽培する、アグロフォレストリーを実行している。これも伝統的な方法かもしれない。

家の後ろにテラプレタガあるというので、早速行ってみた。黒い土があるところはわずかにマウンド状になっているが、塚というほどではない。面積は狭く、10アール以下の広さで、そこを外れると黄色い硬い土になる。オーガで掘ってもらったが、深さ50-60センチ以上が黒い土で、その下は黄色土である。表層は柔らかいが、下はかなり硬い。この黒い土の厚さは場所によって違うという。サンプルをとったが、濡れていると黒く、乾くと暗褐色から灰褐色になる。土器のかけらが混じっており、ルーペで見ると細かな炭の粒は見えるが、大きな炭のかけらは見当たらない。おそらく、永年の間に破砕・風化したのだろう。

テラプレタの表面には、やや大きめの団粒構造が厚さ5センチほど発達しているが、おそらくミミズがいるのだろう。その中ではライムの根がよく育っていた。この団粒は乾いてひどく堅かったが、水をまくと色が際立って黒くなり、黄色土とはっきり見分けがつくほどになった。また、白い菌糸も集まっていたが、この菌の種類は不明。今でも黒い土があるところでは、樹木や作物の生育がよさそうだった。パパイヤを栽培している農家に立ち寄ったが、ここもテラプレタにあたっており、周辺に比べると、明らかにパパイヤの生長が良かった。

母材の黄色土は粘土質で微砂を含み、乾燥するとクラックが入るほど硬くなり、湿ると泥状になる。深い部分でも細粒状構造が発達しており、10センチ以下ではかなり堅密だった。表面に黄色土が露出しているところでは、表層10センチ程度が耕作によって褐色になり、乾季のため深さ25センチまで乾いていた。黄色土のところでも炭を厚くマルチしている場所ではライムの根がよく集まっていたが、乾燥のために枯れてしまうので、埋めたほうが良い。

母材土壌は酸性が強く、pH4.5から4で、黒い土でもpHが5以下だという。黄色土には遊離のアルミが多いが、黒い土ではアルミの量が少ないそうである。炭を施用するとアルミが減ることは知られているので、同じ現象かもしれない。黄色土の所に植えられた柑橘類にマンガン欠乏の症状が出ていたが、栄養バランスが崩れた結果かもしれない。バナナを植えているところでは、表面に白い硝酸塩らしいものが吹いていたので、化学肥料のやりすぎと思われる。ライムやマメの根元に炭のかけらを撒いていたが、これでは効果がない。キャベツにも炭をまいていたが、そのやり方を見ると、現代の農民は炭や灰の使い方を全く知らないらしい。

それほどたくさん見たわけではないが、黒い土のある地点は点在しており、どこも狭い範囲に限られている。陶片が必ず出てくるので、土器を作っていた時代にできたものらしく、最近はその作り方が忘れ去られているようだった。

資料によると、テラプレタのある場所はほとんど河に沿った高台にあって、地下水は45メートル下から汲みあげているそうである。アマゾン川は水位が大きく変わるので、洪水を逃れるために、昔から高地に住んでいたのだろう。いずれも大きな集落の近くのゴミを捨てた場の跡らしく、土器を焼いた後の灰や消し炭も捨てていたのだろう。糞尿や魚や獣の骨なども交じっていたかもしれない。酸性が強いので、おそらく骨は分解しやすい。テラプレタは乾くと暗褐色になるので、黒色土というより土壌化が進んダ人口土壌である。どことなく、子供のころに見た黒い畑の土を思い出した。

帰りは多少涼しくなり、3時間かけてホテルへたどり着いた。山根さんとはアマゾン バイオテクノロジー センター(CBA)の前で別れ、夕食はホテルで軽食をと思ったら、またもや大きくなった。夜10時まで書きものをして就寝。朝早く土の写真を撮ったが、フラッシュで色が変わってしまい、失敗。土の持ち出しは厳しく制限されており、輸入許可も取っていないので、残念ながら捨てることにした。最近は生物資源の持ち出しを厳しくチェックしており、レーマンたちアメリカ人グループが黒い土を持ち出そうとして、空港で没収されたという話だった。

 

8月18日 

8時に山下さんの奥さんの車で農場に行く。山下さんは事務用家具の製造業で成功した人だが、大病の後経営を奥さんと息子さんに任せ、趣味で有機農業を始めたという。郊外に家付きの農地6ヘクタールを買って堆肥つくりから始めて二年目。趣味とはいえ、なかなかのものでいろんな作物を育てて市場へ野菜を出している。手伝いはブラジル人の男性が一人で、奥さんが週に一回来るだけだというが、お得意さんもできて喜ばれていると、嬉しそうに話していた。

マナウスでは熱帯気候のため野菜や生鮮食品の自給率が低く、そのほとんどをサンパウロなど、ブラジル南部に頼ってきた。また、近年都市近郊農業が発達し、農薬による人体被害や化学肥料による土壌劣化が進んだという。そのため、最近になってアマゾン州政府が有機農業を奨励し、生鮮食品の20パーセントを有機栽培食品にするよう勧告した。そのためもあって、マナウス近郊でも有機農業者の組織作りが進んでおり、山下さんが有機農業者組合のリーダーに推されているという話である。

今、山下さんは炭入り堆肥の製造に取り組んでいる。家の前には、ブラジリアンナッツの殻と木炭の屑、都市汚泥などが山積みになっていた。畑の側にはマメ科植物のツルが這い、牛糞もすぐ近くにあるので、有機農業の資材には事欠かない。早速、家の後ろにある作業場で作っている堆肥を見せてもらう。炭の粉と落ち葉、牛フン、マメ科植物のつるを刻んだものを混ぜて堆肥作りの実験が始まっていた。小さな堆積でも分解が早く、すぐ70℃近くまで温度が上がり、わずか1週間で内部が白くなって堆肥化が進んでいる。悪臭が消えて芳香が出ていたが、島本微生物の菌やEM菌を使っているというので、乳酸菌のせいかもしれない。炭を一割程度混ぜているので、さらに分解が速くなったのだろう。

堆肥化が順調に進むと、通常4週間で温度が下がり、白くなって完了するという。熱帯では堆肥の熟成が速く、有機肥料を作るのはたやすいが、すぐ使わないと分解して消えてしまう。長く置くと、袋の中で分解がさらに進み、昆虫が増えて食べられてしまうからである。特にアリやシロアリの攻撃はすさまじい。

上屋だけのハウスでキュウリ、トマト、ミズナ、サラダナなどを作っているが、どれもきれいに育っていた。ビニールシートの屋根が強すぎる光をさえぎり、水分が過剰にならないため、病気の発生も抑えられている。根元に点滴灌水しているトマトやキュウリの出来栄えは上々で、その場で食べると大変おいしかった。ここではアリの害がひどく、レタスやミズナの種をまくと芽生えがすぐ食べられてしまう。そこでビニールカップに種子を播いて土に埋めたら、大きさもそろい、泥はねもないので清浄野菜として売れるようになったという。露地にはキャサバやオクラ、サトイモ、トウガラシ、ナスなどいろんな野菜が雑草と共存しながら育っていた。有機農法と同時に自然農法も試しているという。

炭の材料が有り余るほどあるので、梅沢さんが熱心に炭化と炭堆肥の製造や販売を勧めていた。堆肥のでき具合や有機肥料による野菜の育ち方から推して、先に書いたように農産廃棄物の炭化、炭堆肥製造、有機栽培野菜の生産、環境対応農業のネットワークづくりができれば、ありがたい。有機堆肥を混ぜた山下さんの畑では、一年でミミズが増えて表面に団粒構造に似たものができていた。熱帯ではバクテリアやカビによる有機物の分解が速く、小動物も多いので、粘土質土壌に炭と有機物を入れると、酸性が中和されて意外に早く熟土化するかもしれない。その点で山下さんの畑は貴重な例である。5年で安定したテラプレタができれば上等だが。山下さんと話しているうちに、野菜栽培用の培土や果樹用の肥料作り、廃物の処理方法など、夢が次々と膨らんでいった。

農場を出てから家具工場を見せてもらい、山下さん夫妻とバーベキュー(ガウチョ)で昼食。また、昼間からピンガを飲む。そのあと下町を散歩して、民芸品のお土産を買い、ホテルへ帰って梅沢さんともども持っていったカップラーメンとビールでおしまいにした。

 

8月19日 

山下さんの息子さんが炭化事業に興味を持ったというので、親父さんの通訳で話をする。梅沢さんと簡易炭化炉の製造について業務協定し、そこから共同事業を始めることになった。山下さんは平炉でヤシガラを炭化するほうに興味があるので、梅沢さんが図面を書いてあげる。炭を利用した有機農業が広まるのに応じて、炭化の規模を拡大するようにと話しあった。

昨夜、多少の雨があったらしく、どんよりと曇っている。煙と水蒸気のせいで、ここ二、三日マナウスはいつも曇り空で青空がなかった。「青空のないアマゾン」という印象である。ホテルを10時に出て13時発のベレン行きの飛行機に乗る。17時に港町のベレンに着いて、夕食を港の大きなレストラン街でとる。ベレンの町は古く、大きな街路樹があって港湾も大きいが、飛行機の便が悪い。ここから直接日本へ帰れれば楽なのだが。

テラプレタを見た印象として、テラプレタとバイオチャーを直接結び付けるのは飛躍のしすぎのように思える。アマゾンの土でこそ、驚くほどの効果が見られたが、先進国の土壌ではどうなるのか。条件によって効果が大きく異なることを、もっと慎重に検討してほしい。

リオネグロの黒い色は有機物分解のせいで、アマゾン川の茶色は泥の流出によるらしい。森林破壊の程度は東南アジアの熱帯と変わらないか、それよりも多少はましに見えるが、スケールが違う。最近はアマゾン流域一帯を保護地域に指定しようとする動きも強く、持続的な有機農業を政府が奨励し始めている。森林破壊を止めるためには有機資源を活用した持続性の高い農業技術を作り、農業者を定住させる必要があるが、アジア同様難しい問題が多い。炭がその一端を担えればよいが、どこまで役立つのだろう。眼下にうねりながら流れるアマゾン河と広大な森林を見ていると、憂鬱になってきた。まさに蟷螂の斧である。

 

8月20日 

ホテルを8:30に出て、9:15発のバスでトメアスに向かう。ベレンはマナウスに比べて海に近いせいか空が青く、涼しかった。しかし、陽がのぼるにつれて暑くなり、冷房付きバスの前の席を取ってもらって助かった。延々五時間の旅である。途中でアマゾンの支流をフェリーで渡る。水の色は少しましだが、ゴミが浮き沈みし、茶色で汚れている。

ベレンとトメアスをつなぐ道路沿いは開発が進んでおり、広大な油ヤシのプランテーションが見られる。ほとんどがアメリカ資本で、矮性のアブラヤシを数百ヘクタール規模で植えている。早いのは10年前に植栽し、すでに収穫を始めているという。ユーカリ、パラセリアンサス、マホガニーなどの産業植林も増えているが、まだ若く、伐採には至っていない。また、ブラジル人による広大な牧場が多く、その放棄地や二次林が続いている。トメアスに近づくにつれて、白い柱だけが墓標のように並ぶコショウ畑の跡が現れたが、主産地はもっと奥地にある。

トメアスに近付くにつれて、乗客をどこでも昇降させて、田舎の乗合バスのようになった。トメアスを過ぎて日本人が多い町まで行って、浄土真宗のお坊さんに教えられて寺の前で降りたのが14時前だった。

梅沢さんの叔父さんに迎えられて、息子さんたちの家に行き、お昼御飯をごちそうになる。梅沢美明さんの叔父さん、梅沢保司さんは堺の人で1967年にモデル農場を作る要員として単身ブラジルに渡り、ブラジル人女性と結婚して帰化したそうである。農業は全くの素人だったが、コショウ栽培で成功し、家族にも恵まれた。しかし、1980年代にコショウの立枯れ病の発生で苦労したそうだが、今も工夫を重ねてコショウ畑を維持している。地元ではよく知られた人で、JICAのコショウ栽培研究チームがいた時は、監督として働いていたという。

奥さんは学校の先生だったが、今は引退して家事を担当。長男はやり手で、日本で技術を習得し、自動車の再生修理工場を経営し、次男は数学の先生である。ちょうど70歳のお祝いで、浜松で牧師をやっている娘さん夫婦が帰っており、この日次男に初めて男の子が生まれた。苦労も多かったようだが、今は子供が6人、孫が3人のよい家族に囲まれて、農業をやる傍ら、釣りやマージャンを楽しんでいるという話である。

コショウの病気が問題になった時にJICAの支援で建設された農業試験場へ行ってみたが、森閑として守衛以外人影もない。研究員は一人だけで、依然として病気は発生しているが、コショウは扱っていないという。園内の管理が精いっぱいらしく、手のかからない果樹の育種が主な仕事らしい。JICAから専門家が大勢派遣されて、原因の究明と対策にあたったが、フザリウムによる土壌病害が原因だという結論以外、良い防除方法は見つからなかった。ウイルス説やネマトーダが根を傷つけてフザリウムが入るという説もあったが、いずれも有効な対策にはつながらなかった。

この後、町の通りに面したトメアス文化農業振興協会へ挨拶に出かけた。突然の来訪で驚いたようだったが、私たちの意図が分かると、ぜひ話を聞きたいという。そこで急な話だが、明日の朝7時から話をしようということになった。夕方まで、移民記念館と日本人学校や入植者の家などを見学して、また梅沢さんの家に戻って夕食をいただいた。そこで、みんなで相談してトメアスの特徴を活かしたバイオチャープロジェクトを立ち上げる努力をしてみようということになった。できれば、コショウ栽培の再生も含めたものにしたい。9時にホテルに帰り、早々に床に着く。

 

8月21日(土)

昼間は耐えられないほど暑いが、朝は霧がかかってひんやりとしている。5時に起きて7時に農業振興会館へ行く。コショウ栽培研究会のメンバーは老人ばかりで、わずか7名である。炭が農作物に聞く理由を説明し、コショウの病気に話を移す。リンゴやウメ、クリなどで立枯れ病を見てきた経験が役立ったのか、話が合うらしく、うなずきながら聞いてくれる。フザリウムのこと、苗の植え方、育苗方法、管理方法、マルチの方法、堆肥の作り方、野菜の栽培などなど、質問が多かった。十数年前に杉浦銀治さんが炭焼きを教えに来たことも話題になり、それ以来炭を焼いている人がいるという。炭が作物によいという話も聞いたということだった。

関西産業の梅沢さんから炭の製造方法を紹介し、のこ屑や農産廃物を炭化する事業を段階的に進展させることを勧めた。その結果、トメアスの農業組合と相談して、なんとかしてみようという話になった。のこ屑の炭化と炭堆肥つくり、コショウやほかの作物への施用試験などの案を示し、JICAの草の根支援から始めるのが、望ましいと提案した。なお、ブラジルでは、このトメアス型プロジェクトの案は後ほど書いて、関係者に手渡した。なお、ブラジルは水力発電が主で、アマゾン河下流で石油が出るため、炭化にエネルギー問題を絡める必要はない。

トメアスのお盆は8月21日、そのため中座する人もあって、集まりは9時に終了。ちなみに、アマゾン流域で唯一の寺院がここにあって、浄土真宗、留安山トメアス本願寺という。最初に入植した人たちが広島県出身者で熱心な門徒だったためである。トメは聖人の名前、アスは大きいという意味とか。また、戦争中にアマゾン流域の日系人を集めて収容したところとしても有名になった。ただし、収容所は形ばかりで、逃げることもできないので、行動は自由だったそうである。一時は日系人も多かったが、コショウが失敗して以後、トメアスを離れる人が増え、今残っているのは200家族にすぎない。今も日系人は一目置かれているそうだが、サンパウロの人が行きたがらないというほど辺鄙なところである。

話の後梅沢宅に引き上げ、息子さんに案内してもらって知り合いの製材所を見に行く。12年間で8万m3のおが屑がたまっているが、我々から見ると宝の山である。この近辺ではまだ不法伐採が盛んで、製材所が道路沿いに並んでおり、大量のおが屑が燃やされている。この製材所は近くに家があるため、燃やすことができないので、炭化には乗り気だった。ただし、後4年で全面的に伐採が禁止されるので、それ以後の供給はなくなるという。おが屑の炭化には安価な平炉が適しているので、そこから始めることにする。農産廃物の炭化は関西産業の簡易炉や連続炭化炉から取りかかることになる。ここも炭施用の効果を見ながら規模を拡大することにした。

昼食後、トメアスから40キロ離れた叔父さん夫妻の家に移動する。隣の家は7キロ離れているとのこと。道路の舗装が途絶えて、ここまで来ると、コショウの枯れ方もひどい。途中にトメアス農業協同組合の果汁生産工場があって、見学したが、どこか和歌山県田辺市の梅干し工場に似ていた。今はアサイというヤシの一種やパッションフルーツのジュース生産が主で、冷凍濃縮ジュースが日本へ輸出されている。

問題になったコショウはブラジルの在来植物ではない。1930年代に東南アジアから移入されたもので、れっきとした外来植物である。コショウは付着根を出して支持柱にへばりつく蔓性植物で、直根が出て地表近くに浅く側根を広げる。元来、林内に育つ日陰の植物で、これだけで群落をつくることはない。ブラジルのコショウは品種が異なるのか、東南アジアのものに比べて大きく、実も多いようである。さらに、数百ヘクタールの大規模栽培が一般的で、病害が発生する以前は除草が徹底して行われ、化学肥料が多用されていた。基本的には、この栽培方法が病原性の強いフザリウムの繁殖を促したらしい。

発症の仕方は地形や場所によって異なり、排水不良のところから病気が広がったという。おそらく、タコつぼ式の植え穴に水がたまり、根が腐ったからだという人もいた。この病原菌がどこから来たのか問題だが、来歴は不明のままである。シンガポールから二本の苗を持ってきたというが、その後25年間は病気が出なかったので、苗についてきたのではないらしい。この病原菌は根だけでなく、地上部にも蔓延し、維管束を真っ黒にして枯らす立枯れ症である。

フザリウムは森林土壌に常在する菌で、他の種類が多いと繁殖が抑制されて暴れることはない。しかし、開墾地に植えられたリンゴやモモ、ウメなどの根に感染しやすく、マツなどの苗圃でも立ち枯れを起こすことがある。ここでもおそらく、在来の菌が外来のコショウに適応して病原性を強め、大規模な伝染病になったものと思われる。今は多少終息に向かっているようだが、まだ油断できないだろう。

梅沢さんによると、コショウの植え方には直接畑に挿し木する方法とポット苗を植える方法があるという。なお、播種による例はない。後者は灰色の川砂に挿木して発根させたものをポットに移植して植える方法である。ポット苗は根がとぐろを巻いて、植え穴から出にくく、生長が悪いことが多い。以前は大穴を掘って植え、次の年も外側を掘って根を広げていたが、根を切ると病気にかかりやすくなるという説があって、穴を小さくしたという。

  今、梅沢さんは約30ヘクタール所有し、カカオとコショウを栽培しているが、価格差が年によって大きく変動するため、投機的な仕事になるという。アグロフォレストリーの手法を取り入れて、コショウをカカオやほかの果樹と混植したり、除草を抑えたりしてコショウの病気を防いでいる。コショウの根元におが屑とクプワスーの搾りカス、牛糞などを混ぜたものをマルチするとかなりよくなり、アサイの搾りかす(かたい殻)でマルチすると、根がよく出て枯れが少なくなったという。中には炭をマルチして成功している人もいるというが、詳しいことは分からない。確かにコショウがかなり生き残っている農園が

見られたので、みんなそれぞれ工夫を凝らして病害を防いでいるらしい。

休憩後、250ヘクタールの敷地の中にある梅沢ファミリーお手製のバンガローへ行く。大人も子供も喜々として水浴びを楽しんでいる風景は、いかにものどかで苦労話も昔がたりのように聞こえた。金銭問題をさほど苦労と思わず、楽しみを見出した人は残ったが、ほとんどの人が逃げ出し、後継者不足が深刻な問題になっているという。夕闇が迫る頃、バーベキューを楽しみ、梅沢さんを叔父さん宅に残してホテルへ帰る。

学ぶことの多い一日だったが、20年ほど前、ブラジルに行ってコショウ(ピメンタ)の病気を調べてほしいという依頼を受けたことを思い出した。そのころは、まだコショウを見たこともなければ、熱帯で働いた経験もなかったので、とても手に負えないと思ってお断りした。もし、その時のこのこと出かけていたら、何の成果も上げられず、お役にも立てなかったことだろうと思う。自然現象は調べているだけなら面白いが、何とかしようと思うと、歯が立たない恐ろしいものである。

 

8月22日(日)

5時に起きて日誌とトメアスでの事業プランを書く。涼しいので外を散歩してみたが、町はお世辞にもきれいとは言えず、貧しい人が多いのが気になった。9時に梅沢さんの迎えでお宅へ挨拶に行き、11:00発のバスで出かけるつもりでバス停に行ってみると、日曜日のために13:15までないという。また梅沢宅へ舞い戻り、昼食までいただくことになる。その間、梅沢さんにJICAへ出す事業プランを渡して、説明しておく。

1時過ぎに乗ったバスは満員で乗り心地も悪く、疲れて眠る。ベレンからトメアスまで、船で5日かかったというので、はじめの人たちの苦労がしのばれる。バスは5時間半かかるが、車だと4時間である。今橋をかけているので、もっと近くなるかもしれないが、行くだけでもひと仕事である。7時過ぎにベレンに着いて博多という寿司屋で夕食をとり、ホテルに帰って早く休む。

 

8月23日 -25

朝6:40サンパウロ発の飛行機に乗るため、5時にホテルを出る。多少遅れて飛び立ち、リオネジャネイロに途中止まってサンパウロに向かう。12:30着のため、空港内のレストランでゆっくり食事をとる。サンパウロ大学の蛇毒の研究者で山根さんの弟子のアルベルド君が来て、昼食に加わり見送ってくれる。空港で時間を持て余し、山根さんに帰ってくださるようにいうが、出国するまでは責任があるからとおっしゃる。人柄がわたくしどもとは大違い。反省。

9:40発のダラス行きに乗るため7時にチェックインし、中でまた待つ。この日は待ちの一日だった。やはりブラジルは遠くて広い。飛行機は満席。ダラス空港について、また入国手続きをし、ぐるぐるまわって、途中で荷物を調べられ、アンケート用紙を渡されて手間取り、またまたイライラする。16時にダラスを出て成田に向かう。すいていて楽だったが、日付変更線を越えて一日損をしたような気分になり、成田に定刻の13:40に到着する。とんとんと乗り継いで家に帰り着いたのは、19時頃だった。梅沢さんは米原で別れたが、同行してもらって大変よかったと思う。やはり、老人の一人旅は危ない。思いがけないポカミスが多く、ハタ迷惑になるので、一人旅はやめたほうが良いと思った次第。

それにしても体も胃袋も疲れたが、有意義な15日間だった。この機会を与えてくださり、15日間にわたってお世話いただいた山根先生に改めて心から感謝申し上げる。また、梅沢保司さん一家、山下さん夫妻、イシカワさん、ニュートンさん、田中明さん、アルベルトさんなど、マナウスやトメアスでお世話になった方々に厚く御礼申し上げる。